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第246回 ネガティブ&ポジティブ

国民性をみるとき、これは大雑把な見方ですが、日本人とアメリカ人を比べるとやはり日本人はネガティブ的でアメリカ人はポジティブ的と思えるのです。もちろん日本人のなかにもポジティブな人はたくさんいらっしゃいます。アメリカ人の夫との生活も早25年となりますが、大分助けられている部分があります。物の考え方がどうしてもネガティブ(慎重であったり、もしこうなったらどうしよう)と先を心配する考え方をしてしまう私なので、いつも夫に「どうしてポジティブな考え方ができないんだ」とアドバイスされます。

夫にいわれて考え方をあらためてみると心が晴ればれとし、エネルギーを感じます。そして「ああ、そうだな」と思うのです。日本人は感傷的な気持ちを案外趣のあることとして楽しんでいるところがあるのかもしれません。悲観的な快感というか・・・。私としますと、夫のポジティブな考え方に大きく救われているところがあると思います。ネガティブな考え方は批判的な言動を生むことになりますし、どうしても暗くなってしまいます。どうせなら、ポジティブに生きたほうが自分にとっても周りの人にとってもいいような気がするのです。

9/27 2002

第247回 老いたるクロ

先に亡くなったメチャより年長のクロの耳の治療が今週で3週間目となりましたが、どうもクロは音が聞こえなくなってしまったようです。今までは掃除機がかかるといなくなっていたのに、すぐ傍で掃除機をかけても寝ているのですから。でも食欲、排泄、毛づくろい、運動機能(ダイニングテーブルも一っ飛び)、抵抗する力もかなりありますので耳の機能だけがダメになってしまったようです。家猫ですから外敵の心配はありません。

耳が聞こえなくなったことをクロはどう感じているのだろうと思ったりします。急に世の中に音が無くなってしまったと感じているのでしょうか。他の人も聞こえないと思うのか大きな声で鳴くことが一日のうちに何回かあります。鳴くたびに傍にいってなでてあげるのです。どこか痛くてないているのではないかとはじめ心配したのですが、なんだか寂しかったり誰も傍にいたいときに不安になって大声をだすようです。猫歳18歳、これからも長生きしてもらいたいと思っているのです。

9/30 2002

第248回 私の読書方

人それぞれ読書の仕方があると思います。書斎のある人はそこで静かに読みふけったり、茶の間で一人の時に読んだり、家事の合間の休憩時にダイニングで読んだり、喫茶店にいって静かに読んだりする人もいるかもしれません。私は今3冊の本を同時進行的に読んでいます。ダイニングテーブルには永六輔さんのエッセイ、サンルームには司馬遼太郎氏のエッセイ、そしてベッドの横のテーブルに遠藤周作さんのエッセイが置いてあります。

朝、夫が会社にでかけた後、一仕事を終えて朝食を食べながら永さんお本を開いて2,3チャプターを読みます。そしてまた仕事をして、昼間のお茶休みに司馬氏の本を開きます。そして一日の終わり寝る前に遠藤氏の本を開いて1,2チャプター読んでやすむのです。エッセイですからチャプターごとに完結しますのでこのような読み方が成り立つわけです。私一人で話題の豊富なベテラン作家のお話を聞かせていただく贅沢な時間なのです。

10/02 2002

第249回 雨宿り

今ハリケーンリリーがニューオリンズに上陸し北上しているため、当地は雨です。これからだんだんと雨足も強くなり、風も強く吹いてくるそうです。市内の学校は午前中でおしまいになり、家へ帰されました。ニューオリンズの人たちは昨日のうちに北の内陸部へ強制避難をよぎなくされ、インターステート10号はものすごい車の渋滞を生んだようです。今年はハリケーンの当たり年になるだろうと気象庁の予報があり、これから11月にかけてたびたびまたこのようなことが起こることになるかもしれません。自然の脅威には人間ただひたすら耐えるしかないようです。

さて私は雨が降ったときたくさんの鳥達が葉の繁った木で雨宿りをするのを知っています。それで我家の軒下に金具をとりつけ、その金具に枯れ枝を渡して鳥達が雨宿りできるようにしてみました。まさかすぐに利用するとは思っていなかったのですが、設置してすぐの雨の日、その枯れ枝には10何匹もの鳥達が間隔を保ってならんで静かに雨宿りをしていました。枝に止まって雨のふる外を眺める彼らはいったい何を思っているのでしょう。

10/04 2002

第250回 秋の縁日

ハリケーンリリーが通り過ぎてすぐは蒸し暑かったのですが、今日の日曜日(6日)はそれは気持ちの良い秋晴れの朝で始まりました。昨日は古い裁判所の回りでフリーマーケットが行われ裁判所をぐるっと囲んでブースがたちならびクラフト、アンテイック、置物、焼き物、アクセサリー、ガーデン用品などカラフルにデイスプレイされて家族連れの人々がゆっくり散歩しながら立ち寄ったりしていました。私も早めにでかけてひととおりのお店をゆっくりまわりました。

私の目にとまったのは古い空き瓶を並べたブースで、昔の薬の瓶、インクつぼ、化粧品の瓶など様々な形の瓶が並んでいて小さな一輪挿しの瓶を探していたのでいろいろな瓶を10個買いました。本来20ドルくらいしたかもしれませんが、まとめてかったので10ドルにしてくれました。あとバードハウスの気に入ったのがあったのですが、今回はやめにしました。裁判所の裏側は食べ物コーナーになっていて、ホットドッグ、ドーナツ、ブタの皮をあげたチップ、ハンバーガーなどの屋台が並んであたりに食欲をそそるにおいがたちこめていましたが、ぐっとこらえて通り過ぎました。日本の縁日を思わせる光景でした。

10/07 2002

第251回 栗の木の悲劇

タイトルは少し大げさすぎますが・・・ 栗を買った八百屋さんと話しをしていたときに、栗の話題になりました。「ここでうっている栗はあるお宅の栗の木になったものなんですよ」とおかみさんが言ったので、「どうしてVicksburgには栗の木がないのですか?」と質問しました。その人は詳しくは知らないのですが、話してくれました。 実は以前はたくさんの栗の木がこの地にあったというのです。 ところが大分前気候の影響か虫の影響かわかりませんが、この地の栗の木がみんな病気になって死んでしまったとのことです。 たまたま生きのびた何本かの栗の木があるためこうして私は栗をいただくことができているようです。

栗を食べる習慣がそうなかったために、ほとんど全滅した栗の木をあらためて植樹することはなされなかったようで残念です。アメリカでも北の方では栗を楽しむ習慣があるようですが、南部では栗自体知らない人もいるくらいです。さて、我家の庭に栗の木を植えようかどうしようか考えています。桃栗三年といいますから育つのは早い植物のようですね。今もオーブンで栗をローストしていますが、ほのかにいい匂いが部屋にただよってきました。

10/09 2002

第252回 えっ!これは・

パティオでコンテナガーデンをこの春から夏にかけて楽しませてもらいました。 コンテナの中には良い土をいれることができましたし、水はけもいいので小さな苗もみるみる元気に育ち、夏の間見事な花を咲かせてくれました。今回は寄せ植えをして2,3種類の植物を一つの鉢に植えたのでとても賑やかな眺めとなりました。 そのなかにスイートポテトバイン(蔓)を植えたのですが、この植物は紫色の大きな葉っぱをつけてつるをどんどんあちこちに延ばしていって鉢と鉢の間の隙間を埋めてくれるのです。とても見ごたえのある植物だと思います。

さて、先日ほとんどみんな花枯れしてしまったので、秋の花に植え替えしようと、このスイートポテトを植えた大きな鉢にシャベルをいれて土を解そうとしたら、シャベルが何か固いものにふれました。何だろうと不思議に思いながらその固いものを恐る恐る掘り起こしてみました。そして、ついにその物体を取り出して思わずエッと叫んでしまいました。なんとスイートポテトの大きいのが出てきたのです。それも5個も!見事なスイートポテト(これはさつまいもではありません)で、近々料理して食べようと思っているのです。それにしてもいろいろなことが起こるものですね。

10/11 2002

第253回 秋の模様替え

10月の声を聞くと私はそわそわしてしまいます。夏の小物をしまって秋の小物にイメージチェンジ。そしてそれはまずハロウィーンの飾り付けからはじまります。まず庭の2本のかえでの木に小さなジャックランターン(南瓜のお化け)をたくさんつるします。そして魔女と南瓜を切り取ったベニヤのたて看板をドライブウェイの途中の木のよこにたてかけます。そしてドアに枯葉のリースを飾り、外の植木鉢にカラフルなぽんぽん菊を植えました。

さて、家のなかでは夏の海辺のイメージとしておいておいたミニチュアのビーチチェア、水鳥などをしまって、南瓜のお化け、黒いワイヤーでつくった枯れ木にオレンジのろうそくを灯し、他にもかわいいお化けの小物をちらしました。ソファーのカバーを水色からオレンジに替えてできあがり。すっかり秋の模様替えができました。10月31日はハロウィーンの日、スーパーにはたくさんのキャンデイーがトリッカーたち用に並んでいます。外の木々もうっすらと黄色やオレンジが見られるようになりました。明日から3,4日間急に涼しくなると気象庁からの予報です。さあ、これから庭仕事。

10/14 2002

第254回 飽きるということ

不思議ですね、どんなに美味しい食べ物でも、どんなに面白いことでもずっと食べつづけたり、やったりしますとしまいには飽きてしまいます。飽きるという感覚はどうして起きるのでしょう。好きだという感覚、美味しいという感覚、面白いという感覚はどうして永久的に続かないのでしょうか。人間の脳の構造が、あまり同じ事をしつづけることは身体によくないと判断するのでしょうか。不思議です。脳のどの部分がこの飽きるという感覚を司っているのでしょう。

ですからビジネスも難しいですね。人の嗜好は常に変化するためにビジネスもそれに対応すべく変えていかなくてはいけませんから。でもこの感覚があるから常に人々は新しいものを求めていき、新しいものを生み出していくきっかけになるのかもしれません。私なりに考えたのですが、飽きることを避けるためには、どんなに好きでも飽きるまで自分のものにしないようにすることではないかと・・。このことは食べ物にも、趣味のことにも、そして対人関係にもあてはまるような気がするのです。インターネットの世界にもいえるような気がするのです。いかがでしょうか。

10/16 2002

第255回 くるみちゃん

くるみちゃんは毎朝ガレージのドアをあけるとその音を聞きつけてくるのかちょこちょことやってきます。 そして外猫たちが朝ご飯を終える頃ガレージに入ってきて残りのごはんを食べてゆきます。くるみちゃんはアライグマのあかちゃんで、親とはぐれたのかまだ小さいのに一人で生きているようです。猫のごはんをきちんと食べているせいかコロコロ太って元気な子です。食べ終わると公園のほうにまたちょこちょこと戻っていくのでどこかに隠れ家があるのでしょう。

きつねのケンにしてもアライグマのくるみちゃんにしても見張っていて来たら追い返すことをすればいいのでしょうが、ずっと見張ることもできないのでこのままにするしかありません。でもごはんをきれいにたべるだけでいたずらもなにもせず帰っていくので実は彼らがくるのがなんとなく楽しみになってきました。我家の猫たちも彼らに仲間意識があるのかまったく普通に接しています。まったく種族の違う動物がこうして自然に共存しているのに、同じ人間同士がどうしてうまく地球に共存できないのでしょう・・・

10/18 2002

第256回 人の声

この週末主人以外の人の声を聞かずにすごしました。庭に出ても人の声が聞こえてきません。聞こえるのは遠くに走る自動車の音、救急車の音、そして鳥の鳴き声、風の音、猫の鳴き声、そして夫の声くらいでしょうか。日本から赴任されたご主人の奥さんが「ここはあまりに静か過ぎて始めは落ち着かなかった」とおっしゃっていました。隣近所の人の声が聞こえてこないのです。宣伝カーからのアナウンスもありませんし、回覧版がまわってくることもありません。

買い物にいくにも家から自動車ですから、人込みを歩いたり、他の交通機関を利用することもありませんから人との接触もありません。ですからもし家にずっと篭りっきりになってしまい、もし電話がかかってこなかったとしますと誰とも会わない、会話をしない、誰の声も聞かない日をすごすことになります。日本に住んでいたときは隣の塀をとおして人の声やテレビの音が聞こえたり、道をとおる人の話し声が聞こえてきたり、物売りのアナウンスが流れてきたりしていました。今日ふと思ったのです。今の環境って随分日本と違うなあと。

10/21 2002

第257回 ゆっくり派

昔とくらべて様々なことが手早く行われるようになり、何でも早くできるようになってきました。そして便利になってきました。別にひねくれているわけではないのですが、そんなに急いでどうするの、という気持ちになります。気持ちの持ちようで時計の動きも早くなってしまうような気がします。東京の生活からVicksburgの生活に移って、あまりに時間の早さが違うような気がして驚きました。同じ時代であっても、土地によって時間の進み方が違うものだなあと感じました。

遠藤周作氏が昭和52年に書かれた「教師のなかの”ゆとり”」というエッセイなかに、その当時新しい学習指導要領が発表されて、その改定のねらいの大きな柱のひとつに、『ゆとりあるしかも充実した学生生活が送れるようにすること』というのがあったというのです。それには教師も”ゆとり”をもたなくてはならないわけで、それにはどうしたらいいかという話がこのエッセイの中で展開されるわけですが、今から25年も前にもう「ゆとり」がなくなりつつあったわけで、これには驚きました。ゆとりは時代が進むにつれ何故失われていってしまうのでしょう。
 できるだけこれからはゆっくりいこうと思っているのです。

10/23 2002

第258回 どうして・・

ワシントンDCエリアで起こっているスナイパー連続射殺事件は連日ニュースのトップで流れ、次々と被害者がでてくるなかまだなんの手がかりもなく人々に大きな不安を与えています。食料品の買出し、学校の送り迎え、出勤、何気ない普段の生活のなかで、何物かが無差別に人を射殺しているのですから。事件のターゲットになっている地域の人の気持ちは計り知れないものがあると思います。今朝のニュースでは「子供はどこにいても安全ではない」という犯人のメモがみつかったそうです。

どう考えてもどうしてこんなことすることが思いつくのかわかりません。アメリカではテロの動きにも神経質になっています。テロに結び付けて考える人もいるようです。恐い世の中になったものです。事件の発生している地域では精神的なストレスで病む人も出てきているようで、特に今日は親は子供とじっくり話しをして子供の不安をできるだけ取り除いてあげるようにとアドバイスしていました。大人も互いに不安な気持ちを人と話すことで出すようにとも言っていました。事件の早期解決を祈るばかりです。

10/25 2002

第259回 一安心

昨日にスナイパー連続殺人事件に関してやりきれないお便りを送りましたが、その日に容疑者がつかまり逮捕されました。みなさん新聞でご承知かと思います。きめてはトラックドライバーの通報によるものでした。高速道路には主にトラックドライバー達が仮眠がとれるようなエリアがあり、トイレやベンチなどが置かれドライバーたちがひと息いれたり、夜は仮眠をとったりするのです。たまたまあるサービスエリア(ちなみにこのような所には食べ物を売ったりする店はありませんし、自動販売機などもありません)に止まっていた乗用車に不審をいだいたトラックドライバーが通報して逮捕に結びついたわけです。

大型トラックには仮眠がとれるよう車内が改造されていてホテルなどに泊まらなくてもこのようなサービスエリアで済むわけですが、乗用車がこのようなエリアで夜過ごすことはあまりないようです。とにかく、このドライバーのお手柄でした。情報提供者には多額の謝礼金が用意されており、謝礼金目当てにいろいろと情報を捜し流す人もいるわけですが、このドライバーは当然すべきこととし、また謝礼金はこの殺人事件に巻き込まれた遺族の人々と分け合いたいと話しているとのことで、暗い話題に久しぶりに明るい光が見えました。それにしてもやっと一安心です。

10/26 2002

第260回 暗算

今朝ラジオから聞こえてくるトピックに思わず聞き耳をたててしまいました。ものすごい早口で数式を読み上げています。ミネソタのある学校でおこなわれている暗算のよびかけの声だったのですが、英語で数式を読み上げるので頭がこんがらがってしまいました。そして数式が読み終えて「答えは」と先生がきくと子供の声で「Seventeen」という答えが返ってきていました。正解だったようです。声の様子からまだかなり低学年の子供たちようです。

私も小学校のころラジオのそろばん教室を父と一緒に聞きながらそろばんをはじいたり暗算をしたりしたことがあったなあと懐かしく思い出しました。私がラジオを聞きながら暗算の計算ををしていたとき、なんとなくそろばんを指で打つようにして答えを出していたような気がするのですが、このアメリカの子供たちはどのように頭で計算しているのでしょう。子供たちはこの暗算を楽しんでいるようでした。そして暗算が一番できる子をとても「クール」(かっこいい!)と尊敬して話していました。日本の子供たちは暗算で計算することなどまだ行っているのだろうかと思ったりいたしました。

10/28 2002